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http://webnews.asahi.co.jp/you/special/2003/t20030117.html

1月17日(金)放送
40人を超える犠牲者を出した神戸大学では、5年前から、震災で犠牲になった遺族に対し、聞き取り調査を行っています。調査は犠牲者の当時の状況だけでなく、周辺の様子なども合わせて記録されています。遺族が語る肉親の死を通して震災を検証します。


■震災を後世に伝えるための試み

1冊1冊に、地震で犠牲になった人の遺族から聞き取った内容が記録されています。
神戸大学の遺族調査は、98年から始まりました。全体的な話ではなく、犠牲者1人1人の死を、淡々と記録する仕事です。
ある学生は、「1回、1人の方が亡くなったのが、6500回起こったんだと。6500回死んだのが、6500人死ぬという事故が1回起こったんじゃなく、1人1人亡くなったのが、6500積み重なったのが、阪神大震災」と、話します。

この日、学生たちは、兵庫県西宮市で両親を亡くした、木本秀幸さんの家を訪ねました。調査は、事実関係を、丹念に記録してゆくところから始まります。
「2階の寝ているところはわかっていたんで、駆けつけて、床板外して、50センチくらいのスペースに潜り込んで、最初に父の足を見つけた」
(木本さん)
木本さんは今、両親のことを、形として残してゆく事に意味を感じています。
「オヤジ、オフクロが死んだあとで、本当の親子を築けたなと感じたんで、そういうことを言いたいというのが、多いにありました」と、木本さん。

神戸市灘区に住んでいた広岡和子さん。
聞き取り調査は、夫の武士さんから行われました。
広岡さんは当時歩いていた山道の途中で、その時の様子を話してくれました。 「何かしらその辺に来た時にゴーッという音がした」
(Qゴーッという音がしているのは揺れている時?)
「揺れる瞬間前、ゴーッという… じきにぐっと来て縦揺れ、ゴーッと…」
武士さんは日の出前、山歩きの最中に地震に遭いました。帰ると、自宅は全壊。
妻の和子さんは、すでに亡くなっていました。
「家内に対して何も言うこと無いし、家内は苦労したかも知れんけど…幸せやった」と、広岡さん。

鮮魚店を営んでいた田中禎一さんは、地震で、倒れた店の下敷きになりました。
調査には、一緒に働いていた、息子の和良さんが応じました。
田中さんは、「こういう形で残して頂いたら、後世に、どんな形で残るのかと思った」と、話します。
田中さん親子が住んでいた北淡町の豊島地区は、震災後、区画整理の対象になりました。
(魚屋跡で…)「ここも薬局、雑貨屋、八百屋、畳屋」
(Qみんないなくなった?)「今は、こういう状態…」

住民や行政の意見が対立し、区画整理の工事は、今も続いています。更地の広がるこの街は、とても店を再建できる状態ではありません。
「かなり苦しい。工事始まってから、人が全く来ません!商売人は首吊れって言っているのと一緒。1年以上これ」と、田中さん。

和良さんは、今も魚を仕入れに行きます。さばいた魚を小料理屋に卸すほか、仕出し弁当を作って何とか生計をたてています。
「これしかないですよ、僕ら。他の仕事ついたことも無いし。もう、できるもん言うたら、魚さばくしか能が無い。今さら何やれ言われても、魚いらっているだけしか…」と、魚をさばく田中さん。 和良さんにとって、震災は今も続いています。

遺族の話は、1人1人で違います。しかし、「身近だった人たちが生きていたという証を残したい。」という思いは、共通です。学生たちの目標は、6400人を超える犠牲者の遺族 すべての話を聞くことです。

「調査記録のひとつひとつは、淡々とした話なのですが数十人、数百人の話が集まると、本当に大きな意味を持ちます。過去の事実を受け止め、これから何をしなければならないのかを考える。それが震災を語り継ぐということなのだと感じさせられました」(取材した堀江キャスター・談)


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